【教頭会誌】「根室を去っていくんだろう」
【解説】平成30年10月23日記
北海道の東の果て、根室管内に住んでいつの間にか37年が経っていました。37年の間には、様々なことがありました。様々な出会いがあり、喜びも悲しみも、うれしいことも辛いことも。しかし、悔いというものはありません。私は、この地で教師として生きていくことを選択しました。決して素晴らしい教師ではありませんでしたが、「今目の前にいる子どもに対する強い思い」だけはありました。私が若きとき、多くの方々に支えられたと同じように、今度は若い教師たちを陰から支えられる立場になりたいなと思っています。
※初出 平成17年 教頭会誌
出会いが人生を決める。私は、五年ほどで根室を去るつもりだった。母親から「信司、戻っておいでよ。少しでもいいから、函館に近づいてきてよ」と言われて、別海に着任した。根室管内には、私の知り合いは誰一人としていなかった。それまでの私の人生にとって、根室のことを考えたことなど一度もなかった。母親から戻ってこいと言われれば、口では「職業人になるのだから、そんなわがままは言ってられないよ」と強がるものの、心の中ではいつか私の故郷である函館に戻るつもりでいた。
着任して、子ども達の前に立てば、教師という職業が楽しくて仕方がなかった。無我夢中。先輩諸氏の先生方から見れば、傲慢不遜の若造。何をしでかすか、何を言い出すかわからない未熟な教師。それが若き頃の私だった。
そんな教師をこの地は、温かく包み込んでくれた。先輩の教師たちと夜が明けるまで酒を飲み、教育談義に明け暮れた。地域の人たちからも呼ばれ、自宅にお邪魔させてもらい、酒を飲んだ。飲み屋でも、様々な人たちと酒を酌み交わした。嫁さん候補も何人も紹介してもらった。しかし、縁はなかった。それは心の中のどこかに「いつか根室から逃げるつもり」という思いがあったからだ。
根室管内に着任した新任の教師は五十五名。しかし、今ではほとんどがこの根室を去った。私たちの代だけではなく、それが当時の当たり前のことだった。「根室教師養成場」と言われ、新卒で着任し一人前になると、この地を去っていく。そのことについて誰も異議を唱えなかった。というよりあきらめムードだった。そんなものだと思っていた。どんなに偉そうなことを言おうと「どうせ、お前もいつかは去っていくのだろう」と誰もが心の中で思っているような時代だった。
ある時、私の最も信頼する、そして尊敬する先輩の先生から「青、どうせお前も五、六年もすると、根室から去っていくんだろう」と言われた。それは、私にとっては、もっともきつい一言だった。私がどんなに教育に関して偉そうなことを言おうと、いつかこの地を去っていくという心を持っていれば、それは態度に出る。言葉に出る。地域に根ざした教育が大切だといわれても、教師自身がこの地を去っていく。その矛盾は、地域の人たちからも酒を飲むとよく指摘されてきたことだった。
私は、「根室を去っていくんだろう」と指摘してくれた信頼する先生の言葉を心に刻んだ。根室に骨を埋めるつもりで教師人生を送る。そして、教え子から根室出身の教師を増やすこと。そして、少しでも長く、この地で教師人生を歩んでくれる仲間たちを一人でも多く増やしたい。そのためには、魅力ある教育風土に根室をしていくこと。学生時代、愛知県だけでなく私が過ごした千葉県もまた「管理教育」の進んだ地といわれていた。その点、根室は正反対であった。さまざまな教師を包み込む度量の大きな地であった。私のような「はねっかえり」を受け入れ、育ててくれた。その教育風土を、もっと、もっと魅力あるものにしたいと思った。そのことを強く思ったのである。
それから二十年以上が過ぎた。その当時の私の思いは今でも変わっていない。信頼し尊敬する先輩の先生との出会いがなければ、今の私はいない。