【学校便り】競い合うことで切磋琢磨する

【解説】令和5年3月8日記

最近の教育の流れとして、何か「競争」「競い合うこと」を忌避する傾向があります。

私は、他人と競い合うことは決して悪いことではないと思ってきました。

スポーツの世界でいえば、勝ち負けがあり、順位があります。

芸術の世界でも、コンクールなどで競い合うことはあります。

かつて、運動会の徒競走で手をつないでゴール!というのがニュースになったことがあったようです(私は現場にいてそのような光景を見たことも聞いたこともなかったので本当にあったのか確かめられないのですが)。

そのことに象徴的に表されるように、学校現場は行き過ぎた平等主義に侵されていたように思います。

当然、何事も行き過ぎた事というのは、害をもたらすことはあっても益になることはありません。

他人と競い合うことも、「健全な形」で学校教育に取り入れることによって、子供たちは生き生きとしていくものです。

 

※初出 平成29年5月26日

 

◆昔、バレーボール少年団を担当していたことがありました。私が担当する以前は、今のようにきちんとした組織・活動ではなく、バレーボールの好きな子が放課後集まって活動するといった、放課後活動の延長のようなところがありました。しかし私が教師となったあたりから、少年団としてきちんとした目標や組織、そして活動が求められるというようになってきていました。私が指導者となったのは、放課後活動から少年団活動への過渡期でした。

 

◆当時、指導者として悩んだことの中に次のようなことがありました。「ベンチ入りする子供をどうやって決めるのか」「試合に出す6名の子供つまりレギュラーをどうするのか」「ポジションをどのように決定するのか」といったことでした。それらのことを考えていくと必ずと言っていいほど、上手な子を選抜し勝ちにこだわるのか・みんなを平等に試合に出すのかという二者択一のような問題に突き当たるのでした。

 

◆人と競い合うことは避けては通れません。競い合うことを通して、人は鍛えられ、磨かれ、成長していきます。競い合えば必ず結果が出ます。勝てばうれしい。負ければ悔しい。うれしい感情が次へとつながる。悔しい感情は、次へとつながらないかと言ったらそんなことはありません。悔しい気持ちをバネにして次こそは、という気持ちになります。ただし、中途半端な努力しかしていなかったら、負けても悔しいなんて感情は沸き起こってこないものです。一生懸命努力した者のみが感じられるものなのかもしれませんね。

 

◆体育祭に向けて、A団もB団もそれこそ一生懸命頑張ってきました。また各学級も精一杯頑張ってきました。それは体育祭の持っている「競い合う」という部分があるからです。A団はB団に勝ちたい。B団はA団に勝ちたい。自分のクラスは他のクラスに負けたくない。そんな競い合う気持ちが練習する努力へと駆り立ててきました。

 

◆その練習する努力の過程で、「みんな、もっと頑張って!」「みんなで優勝しよう」逆に「なんか一生懸命するの、めんどくさい」「勝ち負けにこだわることないんじゃない」といった感情と感情がぶつかり合います。一生懸命取り組んでいる生徒から見たら、怠けているように見える仲間に不満を覚えたりする。当然、そこにもめごとやぶつかり合いが生まれ、一生懸命取り組む側が全体に気配りをし、思いやりを持つということはどうすることなのかを身をもって感じていきます。また、他から怠けている、ふざけ半分に見える側も、みんなと心を一つにし、頑張っていくということは行動としてどのようにしたらいいのかを学んでいくのです。

 

◆勝つことを目指しながら、一人一人がお互いの良さ・立場・状況を認め合って切磋琢磨するからこそ、そこに本当の楽しさ・喜びが生まれ、人を次のステージへと押し上げていくのです。明日は、いよいよ全校生徒が努力に努力を重ねてきた体育祭です。きっと素晴らしい体育祭になります。「明日天気になーれ!」です。

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