【学校便り】「共に創り上げる喜び」は一生の財産

【解説】令和4年9月15日記

若いころというのは何をしても記憶に残ります。
特に、仲間たちとやった体験というのはかけがえのないものです。

堅苦しい言い方をすれば、集団活動です。

その集団活動というのは、家庭に戻ってからはほとんど経験できないものです。
学校だからこそ、集団活動はそれなりの時間と内容で仕組むことができます。

その集団活動の中で何を学ぶのか、何を心に刻むのかは子供一人一人によって違うのだと思います。

そして、違って当たり前なのだとも思います。

※初出 平成27年10月30日

◆「レベルが高いですね」これは、学校祭合唱コンクールで審査に当たってくださった3名の先生方の声。3名の先生方の評価は分かれていました。どのクラスが最優秀であるのか、審査した校長室で様々な意見がありました。しかしながら、コンクールである以上、賞をつけなければなりません。賞を付けることはある意味非情ですが、賞が付くことによって、また違った意味での学びが生じます。仮に、自分が期待していたほどの賞でなかったとしても、そこには必ず学びがあるはずです。もしそこで、ふてくされて「俺らはあれ程頑張ったのに、賞をもらえなかった。努力なんて無駄なんだよ」もし、そんなことを思ってしまったら、それこそ合唱コンクールをやる意味なんてありません。それも自分自身が懸命に取り組んできた「努力」をも否定することは、自分自身を否定することでもあります。

◆私の中学生時代も合唱コンクールがありました。この合唱コンクールがいやで、いやで仕方がありませんでした。なにしろ私は音痴でしたから。普通に歌える人たちからすると、なんでもないことのように思うかもしれませんね。しかし、音痴の私からすると人前で歌うことなんて考えられませんでした。合唱コンクールのためにクラスで練習すると、みんなと音がずれている感じがします。自分の声だけが異質に聞こえます。そのために歌っている振りをします。いわゆるクチパクです。幸いなことに、しっかりと歌わない男子が何人かいました。

◆今でもそのときの曲を覚えています。「翼を下さい」という曲。男子低音部担当。私を含めて男子がしっかり歌わないので、そのうち女子から不満が聞こえてきます。「ちょっとやばいんじゃない」といった感じになってきました。仕方なく私は恥ずかしさをこらえて声を出すようにしました。担任の先生からアドバイスが出ました。「男女別々にもっと練習したほうがいい」「合唱を始める前に、ピアノで和音を鳴らして、音をとって声を出したほうがいい」要するにド・ミ・ソの音をピアノで出して、各パートがそれぞれの音階で「アーーー」と声を出すというやつです。

◆そこで、早速パート毎に今まで以上に練習する時間を増やしました。同じパートの男子と声を出していると、何となくわかってきました。「そうか、これでいいんだ!俺でも大丈夫だ」となってきました。合唱を始める前の声出しの「アーーー」も何となくできるようになってきました。そのうちに学級のみんなと一緒に腹の底から声を出し歌っていると何とも言えない感覚を覚えるようになってきました。「みんなと一緒に合唱するということは、こんなに気持ちいいのか!」心が震えるような、そして危うく涙が出てきそうな感覚を味わっていました。

◆さて、本番。「今までの練習の成果を発揮するぞ!目指すは最優秀だ!」ステージにクラスのみんなと上がりました。スポットライトの照明。体育館一杯に埋まっている観客。その瞬間、完全に舞い上がりました。最初の声だし。ピアノの音が鳴りました。みんな声を出しました。「アーーー」私はどんな声を出していいのかわかりませんでした。それでも私も必死になって声を出しました。その瞬間、会場から笑い声が出ました。きっと不協和音です。顔から冷や汗が出ました。その後の「翼を下さい」の自由曲。私に翼をください、どこかに飛んで行ってしまいたいという感じ。無残でした。当然、最優秀はもちろんのこと、優秀賞なんていうのももらえるはずがありません。点数でいえば、きっと最下位だったと思います。

◆だけど、この年になって真っ先に思い出すのは、その無残な「翼を下さい」ではなく、それ以上に、クラスのみんなと一生懸命に練習し精一杯声を出すことで味わった感覚なのです。みんなと一緒に創り上げる喜び。それは今の生徒たちにとっても、かけがえのないものであるはずです。生徒のみんな、感動をありがとう!「みんな、上手だったよ」

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です