子どもの悲しみや辛さに依拠する

担任時代、ある子が次のような日記を書いてきた。

「私は○○○と思っていた。そこで私は、へんな事だが風呂の中に顔を突っ込んで○○○と思ったが、ばかみたいで涙がボロボロ出てきた。」

前学年から、その子はいじめを受けていた。親にも打ち明けられず、一人で悩んでいた。私は、そのことに気がつかないでいた。雰囲気は他の子と変わらず、明るく毎日を過ごしていると思っていたのである。

しかし、違っていた。そのことを知ったのは、先の日記にその子が書いてきたからである。「何と私は鈍感で無神経な教師なのか」と思った。その子と話した。すぐに家庭訪問をした。本人と親に承諾を得て、学級通信にも、その子の日記を載せ、学級全員に知らせた。

子どもとの出会いである4月、私は「差別の青坂」と呼ばれているということを担任すると子ども達に言ってきた。私が子どもを差別したり、ひいきしたりするという意味で使ったのではない。差別を憎み、差別と闘う教師であるということを子ども達に伝えるために、そのように言ったのである。

教師が、学級のいじめなどの差別的言動をなくすためには、いじめられている子の悲しみや辛さに共感し、いじめられている子の側に立てるということが、ともかく重要である。

子どもの悲しみや辛さに依拠できない指導は、子どもの心に響くことはない。子どもの側に立つ姿勢というのは、教頭であっても忘れてはならない教育の根本原理だと思っている。あの子の日記は、私に教師の姿勢を教え、今でも忘れることはない。