【教頭通信】子ども一人ひとりを大切にする
「子ども一人ひとりを大切にする」という教育観・児童観があります。このことについて異を唱える人はいないでしょう。
しかし、「子ども一人ひとりを大切にする」と考えている方、もしくは力説する方がいたとしても、その方ご自身が本当に子ども一人一人を大切にしているかといったらそんなことはありません。
「子どもを大切にしなくちゃいけない」と後輩の教師に説教するくせに、ご自分のしていることといったら、子どもを私物化し、子どもの人格を踏みにじるようなことをなさっている方は案外多いものです。
つまり、優れた教育思想を持っているからといって、必ずしもそのことと実際になさることは一致するとは限らないということです。
左の写真は、着任式の時のものです。この日の朝、校長先生は、朝の職員打合せのときに私達職員に対して次のように言いました。
「子どもたちとの出会いの日です。わかりやすく、短い挨拶をしてください」
そして、校長先生ご自身も着任式のとき、分かりやすく短い挨拶を心がけているのが伝わってきました。
もちろん、K先生も短く、分かりやすい挨拶を心がけていました。
他の先生方はどうであったか、わかりませんが、子どもとの出会いの日、それぞれの方が工夫され、きっと端的で新鮮な話しを子どもたちにされたことでしょう。
さて、そこで考えていただきたいことです。短い挨拶は、学校という教育の場にあって何故正しいことなのか。何故、短い挨拶のほうが適切なのか。
当然、長い挨拶より短い挨拶のほうがいいに決まっています。長々と話されることほど、聞く側にとって苦痛なことはありませんから。
それも何を言いたいのか、伝わってこない話は、聞く気が途中で失せてしまいます。当然、飽きます。姿勢が崩れてきます。隣にちょっかいを掛けたくなります。隣の子と話をしたくなります。手いたずらをしたくなります。
そして、それが毎回のように続くと、子どもたちは「人の話は、きちんと聞かなくてもいい」ということを学習してしまいます。
教育という場で、話をきちんと聞くということを学習するべきことが、反対に人の話はきちんと聞かなくてもいいということを学んでしまうのです。
その意味においても、子どもたちに話をするときには、短くわかりやすい話を心がけるということはとっても大切なこととなります。
話をする側にとって、短く話をしようとすると、当然ポイントを絞り込まなければなりません。短い話の中で、伝えるべきことをきちんと伝えようとします。そこに話をする側の工夫が生まれます。
「分かりやすく、短い挨拶をする」というのは一つの教育方法というべきものです。この方法を支えているのは「子どもを大切にしよう」という教育観です。
公的な場で、それも教育という場で長い挨拶を子どもたちにする方には、「自分はこんなにも立派なんだ」「俺の話しを聞かせてやるから最後まできちんと聞け」といったどこか押し付けがましさがあります。
あくまでも話をする自分が中心なのであって、聞く側である子どもたちは二の次であるといった感じなのです。
長い挨拶をする人もきっと「子どもを大切にしなければならない」と思っているはずです。しかしご本人がしていることは、結局子どもを駄目にしていっていることにつながっているのです。
私達は哲学者ではありません。宗教家でもありません。学者でもありません。もちろん教育評論家でもありません。
日々、子どもと接し、悪戦苦闘することを仕事とする現場の人間です。現場の人間がすべきことは、日々の子どもたちの事実から目を逸らすことなく、子どもの可能性を少しでも引き出すことです。
【初出 平成13年4月9日 教頭通信サシルイ】