【教頭通信】「教師として上達したいのなら、汗をかけ、恥をかけ」

【解説】平成30年11月19日記

教師は、子どもを導き指さしし、よりよい方へと成長させていく指導者です。子どもが学ぶ主体者だとしても、やはりこれからも変わらない「教師という職」のある側面を表しています。もし、教師が子どもをより良い方へ導くことも、指さすこともできないのだとしたら、教師という職業は存在しなくてもいいのです。

しかし、教師は最初から教師としてあるのではありません。教師もまた成長し、人から尊敬される教師となっていくのです。そのために日々研鑽です。文中にもあるように「汗をかけ」「恥をかけ」というのはとても大切なことです。研鑽するということは自分の弱さとの戦いなのです。

※初出 平成17年 教頭通信

◆大学時代、先輩から次のように言われたことがあります。

「青坂、お前は音痴だけでなく、リズム音痴でもあるな」音程がとれない音痴だとは思っていましたが、リズムまできちんと刻めないのです。そのことをあからさまに指摘されて、いささかショックでしたが、たしかに他の人に比べて、リズムがうまくとれません。コンサートに行って、観客が手拍子する場面になると、妙に引いている自分がいました。他の人や音楽と手拍子が合わせられないのです。ですから、私のような人間が小学校教師になっているというのは大変な間違いなのですが、何故かこうして小学校教師をしています。

 

◆教師になって困ったことの一つに、音楽を教えなければならない、ということがありました。なにしろ「音痴」であり「リズム音痴」で二重苦を抱えていました。そしてそればかりかピアノも弾けないのですから「三重苦」です。教師になりたての頃は、高学年担当で音楽専科の先生がいましたから、助かりました。しかし、学芸会のシーズンになってくると、憂鬱でした。なにしろ音楽指導して、指揮までしなくてはなりません。それでも音楽指導ならなんとかなりました。子どもに伴奏させたり、テープを流して指導しました。子どもたちはいつも大きな声で、元気に歌ってくれました。ところが指揮だけはどうにもなりませんでした。なにしろリズム音痴ですから、子どもの歌と指揮がだんだんずれてしまうのです。恥ずかしくて仕方がありませんでした。

 

◆そこで、子どもに指揮をやらせたり、指揮なしで合唱や合奏をさせました。また、ベテランの先生でも子どもだけでやらせたり、指揮なしでやらせたりしていたので、それでもいいのかなと思っていました。

 

◆ところが学芸会の総練習が終わって、反省会が放課後もたれました。その最後に、当時の校長先生(たしか南政明先生だったと思います)がちょっときつい調子で次のように言いました。

「子どもの音楽発表のとき、先生が指揮をしないということはどういうことだ。先生が指揮をすることで、子どもの能力を引き出し、全体の声や合奏を一つにまとめていくことができるのだ」

そのとき、何故か素直に「そうなんだ」とは思えませんでした。今から思えば素直に考えられなかったのは、言い訳であり、言い逃れであったと思います。

「何故、子どもの合唱や合奏で先生が指揮をしなくてはならないのだ。子どもにやらせることでメリットがある」等と思ったのです。それは結局自分が「リズム音痴」であることの弁解であり、人前でやる指揮の恥ずかしさを隠すためであったと思います。

 

◆人前で何かをやるというのは、恥ずかしいことです。低学年の子どもたちの前で遊戯をやることだって、フォークダンスを見せることだって、歌を歌ってみせることだって、心の中に恥ずかしさは存在します。人から笑われるのはやだな、失敗してしまったらかっこ悪いよな、などと思ってしまいます。

 

◆ある校長先生が「教師として上達したいのなら、汗をかけ、恥をかけ」とおっしゃいました。なかなかの名言です。「汗をかけ」だけならわかります。その上で「恥をかけ」と言う訳です。教師が「恥をかく」ことで、違う世界がその教師には待っています。子どもの違った笑顔を見ることができます。それまで経験したことのないような、教師冥利に尽きることが待っていたりします。それは子どもの可能性を引き出す教師としての確かな技量を身に付けていくことになるからなのです。

 

◆現在、音楽集会に取り組んでいます。子どもたちの生き生きした姿がとっても印象的で、素敵だなと思います。そして、そればかりか指揮をされる先生方、指導される先生の一生懸命さが、音楽三重苦の私にもびんびん伝わってきます。先生方の一生懸命さが子どもたちの笑顔や生き生きした姿を引き出しているのだなと思います。

 

◆低学年を担当したとき、私も頑張って指揮をするようにしました。(ただし学芸会などの大きな舞台は、他の先生に任せましたが。)私の指揮のポイント、指導のポイントは、「下手でもいい。青坂先生のように音痴だっていい。ともかく一人ひとりが声を出すこと」そのために、歌の最中に子どもの口や顔、そして立ち姿を見て、合いの手のように褒め言葉を入れることを一生懸命しました。当然、子どもたちには「先生、間違えるかもしれないけど、気にしないで、先生の失敗を笑わないで、歌ってください」とお願いしてありました。結果として子どもたちは音楽が大好きな子になりました。今のような歌声集会が今後とも続いてくれたらなと思っています。

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