【教頭通信】学力向上のポイントは教師の教え方にあります
【解説】平成30年11月12日記
棘のある書き方をします。学力を向上させられないのは、教師の教え方が悪いからです。教師は、他に原因を求めることは可能です。しかし、そのことをしている限り、次への展望は開けてきません。
まず、謙虚に自分の教え方を振り返り、人から学び、数多くの書物から学ぶことをしなければなりません。そうして初めて子供の成長を学力という観点から保証することができるのです。
「学力向上」は人と比較することではありません。その子の過去と比べていくことです。その子自身の成長を保証することは学校教育の使命です。
※初出 平成17年 教頭通信
◆校長先生が、この4月の年度方針・年度重点を発表されるとき、まず初めに次のことをおっしゃいました。
学校は子どもが育つ土壌である。 |
つまり「学校は、植物の成長を支える豊かな土壌であれ」とたとえたわけです。この喩えは、私にはストンと落ちるものでした。
◆若いとき、私の学級は学力的に芳しいものではありませんでした。子どもたちに、そこそこに信頼されていたと思います。自分で言うのも変ですが、教え方もそれなりにうまかったと思います。傲慢にもそう思っていました。しかし、学力的には他の学級より落ちるのです。その原因がどこにあるのかわかりませんでした。子どもに原因があるのではないかと思いました。つまり学級編成に問題があって、私の学級にはたまたまそうした学力的には低い子達が集まったのだと思いました。しかし、そうしたことを考えたからといって、何か前向きな考え方が出てくるかといったら、そんなこともありません。私は、子どもたちの責任にするのを止めました。学力が低いのは、あくまでも自分の責任なのだと考えるようにしました。教え方が悪いから、自分の教育方法が悪いから、このようになるのだと考えたわけです。
◆大学時代、教育心理学専修でした。講義の中で、人の性格は粗く言うと二つに分類できる。「内罰傾向の高い人」と「外罰傾向の高い人」の二つ。「内罰」とは、「ある出来事が起きたとき、それは自分自身に問題があったのだ。自分が悪い」と考えること。「外罰」とは、その逆で「自分には問題は無く、自分以外の人だとか社会だとかに原因を求める」と考えること。そして、「内罰傾向の高い人」ほど、物事に真剣に向き合い、努力できる傾向が高いということを教わっていました。
◆内罰的に考えること。そうすると、子どもの学力が低いこと、それは私自身の教師としての教え方こそに問題があるということ。その観点から、周りの先生方の教え方を観察してみたのです。学力の高い学級は、概してベテランの先生方、それも女の先生方が多かったのです。もちろん男の先生もいました。しかし、職員室の中で目立つような方ではなく、派手ではなく、内気な、それでいて温和な方に多かったのです。要するに私とは正反対の方々です。
◆私は、教師には不向きな人間だとずっと思ってきました。そのことをあらためて突きつけられたような気がしました。その人の人間性や性格だけで言ったら、私は教師失格なのです。そこで、「教え方」という観点だけで、学力の高められる先生方を見てみました。そして、一つの結論に達しました。学力を高める秘訣です。ポイント中のポイントといっていいものです。
続ける。 |
何のことはない結論です。学力を高める先生方は、毎日、毎日、こつこつと「あること」を子どもたちに指導し続けるのです。毎日、毎日、こつこつと指導し続けることによって、「あること」は確実に子どもたちに定着していくのです。「あること」とは、その先生によって違いました。作文指導だったり、計算だったり、運動系だったり、スピーチだったり、それぞれ様々でした。反対に私といえば、あれもやったり、これもやったりと一貫していませんでした。全てが試行錯誤でした。悪く言えば、飽きやすく、全てが中途半端でした。これでは学力が付かないのも当然でした。
◆植物をよりよく成長させるには、「養分」「光」「水分」が必要です。しかもそれは、気が向いたときだけあげていてもよりよく成長しません。昨日は水やったけど、今日はめんどくさいから水はやらない。そんな考え方では、植物は育つわけないのです。それと教育は同じです。「養分」「光」「水分」を継続的にあげる。しかも適切な量を適切なときに補給してあげなければならならいのです。それは「育てる」ポイントなのです。
育てる=継続させる |
このことを理解したとき、私の実践は変化しました。学級の教育活動の中に、「育てる(続ける)活動」を意図的に仕組むようにしました。そして「百日学級」「努力の持続」といった合言葉を決めて、子どもたちとともに取り組みました。例えば日記。例えば家庭学習としての自学への取り組みなどです。もちろん指導の課題も見えてきました。その最大のことが、「落ちこぼれてしまう子」「指導についてこれない子」をどうするのかということでした。続けさせる「あること」を吟味する必要と指導方法の工夫、しかもすぐれた指導技術が必要とされたのです。