【教頭通信】「指導の充実」をいかに図るか①
【解説】令和4年11月13日記
今から20年以上前、知床半島の小さな学校に教頭として着任した時、インターネットが学校に導入され始めていました。
当時は、学校でインターネットを使っている学校はほとんどありませんでした。
しかし、その小さな学校では先進的に取り組んでいました。
その一つとして、職員のコミュニケーションの手段として「ネット掲示板」を取り入れました。
これは、若い職員の多いその学校では大きな働きをしていました。
※初出 平成14年6月19日
■飛仁帯掲示板にH先生が「指導の充実」のことについて書いています。H先生は、日常何気なく行っていることについて再認識してみようと言っています。私も同感です。
■指導の充実を図るためには、「自分の指導は不十分なのだ」と自覚するところから始まります。「自分の指導に満足している」と思っている方に、いくら指導を充実させようと言ったところで伝わるものではありません。「自分の指導はまだまだだ」「もっと指導を充実させたい」と願っていることがどうしても必要になります。
■ところが、本人はなかなか自覚できないことが多いものです。見えているようだけど見えていない、わかっていそうだけどわかっていないということが多いものです。
その例を一つあげてみましょう。
■本日、全校朝会がありました。行進のことについては、H先生から指摘があったので私は別のことを述べてみることにします。校長先生から、「命の大切さ・貴さ」について話しがありました。その後、司会の子から「感想はありませんか」という投げかけがあります。そして、多くの子が手を挙げ、司会の子から指名され感想を発表します。どの子の感想も立派です。たくさんの子ども達が発表します。そこで、私はみなさんに問い掛けてみたいと思います。あの感想を発表する場面で、指導の充実という観点から考えて私達教師が指導すべきこととはもうないでしょうか。
■「もう何もすることはない」と考えるのか、「あるかもしれないけど考えられない」と考えるのか、「あるかもしれないけど私とは関係ない」と考えるのか、「指導することはある」と考えるのか。さあ、どれでしょうか。
■大方の先生方は、「ある」と答えるでしょう。それは、手を挙げて発表する子が限られていると考え、もっと違った子の発表も聞きたいと感じているのかもしれませんね。私も同感です。一度も発表していない子、一度ぐらいしか発表していない子はいないでしょうか。その子達は、発表するということに挑戦しなくてもいいのでしょうか。そんなことはありませんね。どの先生方も子供達全員が発表できるようになってほしいと願っているはずです。子どもの可能性を引き出すことが教師の役目ですから、一人残らず発表できる力を付けてほしいと願うのは当然のことです。しかし、強制的には発表させたくないしな、とも思っていますね。子どもの考えや気持ちを尊重し、自然に発表できるようになってほしいとも思っているはずです。
■みんなが発表できる力を付けてほしい。しかし、強制ではない形でできるようにはならないだろうか。その問題意識を持って、指導に当たることが、指導の充実を考えることになります。
■さてそれでは、発表できる子達の発言内容はどうでしょうか。「立派だ」「小学生にしてみたら、とってもいいことを言うな」と考えるでしょうか。そのように一時考えることも当然必要です。子どもを認め、子どもを誉め、育てることが教師の仕事の一つだからです。(教師の子どもを認めてあげる姿勢が子どもを育てるからです)
■しかし、そこで止まっていたのでは新たな挑戦は生まれてきません。教師が新たな指導への挑戦ができないということは、子どももまた自分の可能性を引き出さず、そこで止まってしまうことを意味します。
■「校長先生の話を聞いて、私は生き物を大切にしたいと思いました」
この発言で教師は満足してはなりません。もちろんいつも発表しない子がそのように言ったのだとしたら、多いに賞賛します。しかし、ねんがら年中発言している子が、このレベルで止まっているとしたら、そこに何らかの指導の手を入れていきたいと私なら思います。もちろん、先生の中には「いいんじゃないの。無理することはないし、これだけで十分立派だよ」とおっしゃる方がいるかもしれません。しかし指導する時間があればやはり私なら挑戦します。
■さてそれでは、この発言内容をどのように高めたらいいでしょうか。高めるためには、その理想形を知っていなければなりません。つまり目標のイメージがなければ、子どもの可能性を引き出す出発点には立てないと言うことです。私は、次のような発表を理想とします。
「校長先生のセキレイが学校の下に巣を作っているという話を聞いて、私は自分の家でも同じことがあったことを思い出しました。そのセキレイは、雛を育てるのに一生懸命でした。毎日親のセキレイは餌をやっているようでした。私はその姿を見て、セキレイも一生懸命生きているのだなと思いました。これからは、人間と同じように生き物も大切にしたいと思います。」