【校長通信】自分の教育観・子ども観を磨く その2 ※すぐれた教育者 東井義雄先生 

【解説】令和6年4月13日記

多くの人たちを引き付けるような実践は、やはり着眼点や目標、方針、方法、実践の事実などが秀でていることが多く、多くの人たちの参考となることはたくさんある。

しかし、多くの人たちが目につかないようなことであっても、足元をきちんと見つめ、自分の教育観や子供観を振り返りつつ、確かな実践を行うことは何にも増して大切なことだ。

地味であっても、誰からも振り返られずとも、その教師と一人の子供とでの間で交わされるやり取り。

そこに常に目を向けられる教師でありたい。

そして、真にすぐれた教師とは、そうした日々の生活の中に価値を見出せる人である。

※初出 平成22年9月26日

◆すぐれた教育者に共通していることは、何か大きなことをしたということではない。日々の日常の中に、私達が忘れている何事かをキラリと見せてくれるところにある。日々の実践の中にこそ、教育の真実・教育の本質を垣間見せてくれる所にあるのである。

 

◆東井義雄先生の記録の中に次の文章がある。

私は朝、出勤すると、職員室に出向いて、おはようございます、きょうも子ども達がお世話になりますが、どうぞよろしくお願いします、という思いで「おはようございます」と言い、主事のおばちゃんのところにいき、今日も子ども達がいろいろとお世話になりますが、どうかよろしくお願いします、という思いで「おはようございます」といい、それを終わって、教室沿いに廊下を進み、どの教室にも廊下から「おはようございます」と挨拶をして回ることにしていた。

どうだろうか。何気なく書いている校長としての東井先生の朝の動きの一こまである。私達が普段している朝の挨拶の大切さの本質を見事に描き出している。

 

◆東井先生のような思いで、私は心を込めて毎朝挨拶をしているだろうか。なおざりの挨拶、形式的な挨拶をしていないだろうか。自分の挨拶を振り返ってみれば、反省することは多い。

 

◆それでも、私が気をつけてしていることは「先生方の仕事を中断しないように」という思いで「おはようございます」と言っていることだ。私は、朝7時30分に家を出る。職員室に入ってくると、もう既に何人もの先生方が出勤していて、一生懸命働いている。その日の準備をしているのだろう。今日であれば、グランドでマラソン試走のための準備をしていた。ともかく、私は職員室に「おはようございます」と言って入ってくる。しかし、「仕事を中断しないように」という思いが強すぎるのか、先生方の心には届かないような感じになっている。それでは、挨拶している意味がないのではないかと思ったりしている。

 

◆指導部から提案されている二学期の生活目標の一つは、「自分から先に挨拶をしよう」ということだ。一学期に比べると自然な感じで挨拶できる子が増えたなと思う。しかし、もっと挨拶できる子が今以上に増えたら、素敵だろうと思っている。そのためにどうしたらいいのだろうか。そのヒントは、東井先生の文にある。それは教師自らが心を込めて挨拶をするということだ。「挨拶する環境の中で育った子は、挨拶できる子に育つ」ということが基本なのだ。

 

◆この地域は、子ども達ばかりでなく大人の側も挨拶することが苦手だと私は感じている。しかし、そのことを嘆いていても仕方のないことだ。少なくても学校の中だけでも、挨拶がたくさん交わされる場でありたい。「おはよう」「おはようございます」「さようなら」「ありがとうございました」「失礼します」「失礼しました」「お願いします」等、挨拶といっても実際に口から出てくる言葉はそれほど多くはない。子ども達が挨拶しなくても、教師側が気持ちのよい、心のこもった挨拶を何度もしていれば、いつしか子どもたちは挨拶ができるようになるのだと信じたい。

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