【教頭会誌】「見る」から「見えている」へ
【解説】平成30年10月22日記
いかなる職業にも、その職業を成立させる基本的な技術・スキルというものが存在します。教師にも、基本となる技術があります。玉川大学の谷和樹先生は「ベーシック・スキル」と呼んでいます。例えば、笑顔・声・目線といったものです。今回紹介する文章では「目線」について述べています。校長や教頭にとっても、この目線はとても大切なものです。
※初出 平成16年 教頭会誌
学校の印刷室から児童玄関の方を見ていた。休み時間、子どもたちが玄関前で遊んでいる。中には、担任教師と一緒に遊んでいる子どもたちもいる。
休み時間終了のチャイムが鳴った。子どもと遊んでいた教師が職員玄関へと向かう。その学級の子どもたちの多くが児童玄関へと向かう。
ある一人の男の子が、職員玄関へと向かう担任教師に駆け寄り、腕を絡ませ、ぶら下がろうとしている。教師は、笑顔でそれを制し、早く教室に向かうことを指示しているようだ。その男の子も笑顔で教師にじゃれている。そのほほえましい様子を見ながら、私は、その男の子は誰なのかなと思って、顔を見た。
その顔を見て、びっくりした。予想外だったのである。その男の子は、授業時間中、目が釣り上がっていることが多い子だった。やる気が見られず、暗い表情が多かった。時に、教師に反発した。
その様子を知っているだけに、教師と笑顔でじゃれている様子を見て私はびっくりしたのである。
教師が代わって半年後のことだ。前の担任していた教師も一生懸命子どもの指導に当たった。しかし、その男の子は反発したままで、一年が過ぎた。
そして、担任教師が代わった。代わって半年で子どもも変わった。前の教師が悪かったのではない。前の教師も一生懸命やったのだ。ただ教師として、力がなかっただけのことだ。
教育関係者なら、誰もが知っている。指導者としての教師に力量があれば、多くの子どもたちの問題行動を減らすことができるということを。
しかし、教師もまた人間だ。はじめからすばらしい教師はいない。教師として努力し、研鑽する毎日を送ることで、一人前の教師となっていくのである。若い教師は、失敗もし、多くの間違いも犯す。それが自然なのだ。
力のある教師と力のない教師の決定的な差は、やはり授業力である。授業を通して、子どもたちにできなかったことをできるようにさせたり、わからなかったことをわかるようにさせたり、見えなかったことを見えるようにさせることができる教師。そして、授業を通して、子どもの自己存在感や自己有用感を育んでいくのである。
新卒教師の授業を見る。子どもたちの前に立った瞬間に教師としての力がわかる。私が見てきた新卒教師のほとんどが子どもたちを見ていなかった。手に持った教科書を見ていたり、指導案を見ていたり、下を見ていたりする教師がほとんどであった。未熟そのものなのだ。もちろん未熟なことが悪いのではない。
教師は、子どもを見ることから始まる。その「見る」とは、抽象的なことを言っているのではない。子どもが何を考えているか、心の中まで見ると言うような高段の技術を言うのではない。ともかく、目を見開き、子ども一人ひとりを見る目線なのだ。子どもがいたら、ただただ見る。子どもを見る習慣がその教師についてくれば、必ずその教師は伸びていくのである。
力量のある教師は、間違いなく子どもが見えている。見えているから次々と子どもの力を引き出す手立てを打っていける。教師修行の結果として、「見る」から「見えている」に変わっていくのである。