【月別経営の重点】2月。死刑囚「島秋人」から考える「教育の二面性」
【解説】令和4年9月3日記
年度末に入ってきました。中学校は高校入試、卒業式や修了式などを控えあわただしい日々を送っています。
学力の方は、全道平均・全国平均を上回る結果を残しています。
全道的にみれば数学は低い傾向が続いていましたが、幸いなことに先生方の取組もあり良好な結果を示していました。
ただ、残念なこともありました。
それについても率直に職員全体に投げかけ、職員全体と一緒に考えていきたいと思っていました。
力足らずの面もありましたが、この年で去ることになりました。
最後に、「教育の二面性」ということについて、書き残しました。
※初出 平成30年2月
※前半部分は省略します。
3 是非知ってほしい「島秋人のこと」
私たちは教師と呼ばれる職業を選択した。教師という職業を続けていくにあたって是非知っておいてほしいことがある。
島秋人という人物を通して「教育とは何か」という問題である。
もう既に島秋人についてご存知の方もいるかもしれないが、最近、私は、詳しく知ることとなった。※伊藤 隆二著『育つ才能伸びる個性 世界の偉人50人の子ども時代』(PHP文庫) より
島秋人。本名を中村覚という。著名人ではない。それどころか、小学校のときも、中学校のときも、何のとりえもないと思われていた学業不振児であった。成績はいつもクラスで最下位だった。どの教科もできなかった。
秋人自身も「知能指数の低い、精神病院に入院し、脳膜炎をやった」最低の人間だったと、大人になってから書いているほどである。 小学校の5年生のとき、国語の試験に零点をとったことがある。担任の先生は、「おまえは低能だ」といって、足で蹴とばし、棒で殴ったという。 恐ろしくなった秋人は苦しまぎれ に、うそをつき、学校をさぼり、一日中、神社のうらの草やぶや、川口の岩かげに隠れていたこともあった。 |
何ということだろうか。ただ勉強ができないというだけで、しかも国語で0点をとったということで、教師から「低能だ」と罵倒され、足で蹴飛ばされ棒で殴られるという体罰を受ける。
そして、島秋人は次のようになっていく。
彼が3歳のとき、すでに母は他界していた。「勉強ができない」という理由で、級友からは仲間はずれにされ、父からも冷たく扱われた秋人は、孤独であった。
その可憐な小さな魂を、みずからいとおしむには、秋人の心は、あまりにも未熟であった。実際、彼の心は少しずつ荒れ、すさんでいった。性格はひねくれていき、衝動的な行動をくり返し、 喧嘩早くなり、そして、とうとう盗みを働いて、少年院に送られてしまったのだ。 |
普通なら、学校での悲しい出来事を家庭が優しく包み込むことで次への気力がわいてくる。
しかし、秋人には母はいなかった。父親は母親の代わりにはならなかった。
そして、転落していくのである。
その秋人に最悪の事態が訪れる。
そのあげく、昭和34年、24歳のときに、ある農家へ泥棒にはいり、そこの主婦を殺してしまったのである。わずか二千円をとり、逃げようとしたときに、村から帰ってきた主婦に発見され、争いになって、あげくのことだった。
裁判では情状酌量の余地なしとして、死刑をいいわたされた。 そして、昭和42年11月2日に、処刑。断頭台の露と消えた島秋人は、そのとき、わずか33歳だったという。 |
殺人を犯し、死刑となる。
その原因は様々考えられる。
しかし、学校の、教師の在り様が島秋人の転落のきっかけを作ったのは間違いない。
「教育のおそろしさ」である。私たちが考える以上に教育には力があるのである。
しかし、この続きがある。
島秋人は、死刑宣告を受け留置場の中で教師からたった一度だけ褒められたことを思い出すのである。
島秋人は、何のとりえもないと思われていた学業不振児であった。
昭和35年、死刑囚となった彼が、ほめられたことなどなかった小学校、中学校時代の記憶の中から、ただ一回だけ、ほめられたことを非常になつかしく思ったことがあったという。 それは中学校1年生のとき、クラス担任であり、美術の先生であった吉田好道先生が、「きみは、絵はへたくそだけど、構図がよい」といって、美術の時間に、みんなの前で、ほめてくださったことである。 |
死刑判決、そして死刑執行の牢屋に留置されているわずかな月日の中で、島秋人は変わるのである。
それは中学校の美術科教師の誉め言葉である。
島秋人は、その教師に手紙を出す。
すると心温まる返信とともに、奥さんの手紙も同封しており、その中に短歌三首も添えられてあった。
その時に「短歌もいいものだな」と思う。
それから島秋人は短歌を創作しだす。
その短歌を毎日新聞の歌壇に投稿しだす。
すると歌人窪田空穂の目に留まる。
やがて、毎日歌壇賞をもらうようになるのである。それも一度や二度ではなかった。
しかし、死刑執行の日がやってくる。
そして島秋人の死後、歌を愛する人たちによって島秋人の短歌集『遺愛集』が出版されるのである。
その『遺愛集』の序文に窪田空穂は次のように書いている。
自身の身世を大観し、現在の心境を披瀝した大きな歌がある。そうした歌を読むと、頭脳の明晰さ、感性の鋭敏さを思わずにはいられない感がする。 |
小学5年の時、国語のテストで零点をとり、担任教師から「低能」と罵倒され、足で蹴られ棒で叩かれた彼が、有名な歌人窪田空穂から頭脳が明晰であり、感性が鋭敏であるとまで言われるようになるのである。
間違いなく死刑囚島秋人は変わったのである。
そのきっかけはたった一度美術科教師から「構図がよい」と褒められたことがきっかけなのである。
ここに教育の素晴らしさを感じる。教育の力を感じるのである。
4 「教育のおそろしさ」と「教育の素晴らしさ」
かたや「教育のおそろしさ」を感じ、かたや「教育の素晴らしさ」を感じる。
それは小学校5年の時の担任教師が「悪」で、美術科教師が「善」なのだというふうには単純には考えたくない。
人間は両面性を抱えている。
一人の人間には悪もあれば善もある。
それが普通なのだ。
私にだって、醜悪で差別的で、決して人には知られたくない「悪の心」を持っている。
その反面自分にだっていいところはあると思っている。
「教育は人なり」という言葉がある。
人によっていかようにも教育の様相は変わっていく。
子どもの欠点や直すべき点ばかりに目が行き「子どもが悪い」「親が悪い」と口に出していれば、ますます子供は悪い方向に転がっていく。
子どものよい点を見つめ、子供の可能性を少しでもひきだそうとするなら、子供ばかりでなく教師もまた成長のレールに乗ることになる。
良い教育をしようとするなら、教師である者も自分を高みへと誘っていかなければならないのである。
教育とは、生身の人間が生身の人間と相対することで、共に成長していく過程、それが教育である。
きれいごとでは済まないものである。
よりよい教育を実践していくためには自分の醜悪な部分と向き合い、少しでもよりよきものへとしていくことが必要である。
それが教師修業なのである。
果たして私自身がそういう道を歩んできたのか。
反省ばかりが頭に浮かぶ。
是非、先生方には数多くの「教育の素晴らしさ」に出会える道・「教育の素晴らしさ」を実感できる道を歩んでほしいと願っている。
5 最後に
今年度終了まであと1か月と少しになった。
3年生にとっては、高校進学さえ決まれば「黄金の時期」であろう。
高校入試が終わり合格発表までの間、どのように過ごすか。きっと卒業式に向けた取り組みや別れに向けた取り組みが始まるのであろう。
全校生徒全員が「立つ鳥跡を濁さず」である。「終わりよければすべてよし」である。
是非価値ある有意義な学校生活を最後まで送ってほしい。