【教頭通信】仕事の手順を見直す③

【解説】令和元年9月10日記

働き方改革は、一人一人の行動がポイントである。それも難しいことではない。時間を守ること、これが徹底できれば多くのことは解決する。前号と矛盾するようだが、「時間を守ること」しかも限定すること。これはとても大切である。

※初出 平成13年 教頭通信

■農村の学校にいたときのことです。

PTAの会議は、夜7時30分が開始時刻です。

搾乳が終わってからというのが「常識」です。

ところが、この7時30分に始まることはほとんどなかったです。

ほとんどというより、一度も定刻に始まったことはありませんでした。

何故なら、遅れてくる人を待つからです。

「・・さんが、まだ来ていないから、もう少し待とう」となるのです。

最初は、5分程度の遅れが、ひどいときには一時間の遅れ、つまり8時30分ごろになって始まるのです。

そして、終わる時刻もはっきりしません。

話し合いというより、ただたんなるお喋りといったことも多々ありました。

 

■前の学校では、こんなこともありました。

職員会議開始が2時30分となっていました。

しかし、多くの方は忙しいのか、定刻通りには始まらないことが多かったのです。

(遅れてくる人を待つために定刻通り始まらないのです)

そこで、開始時刻を10分遅らせ、2時40分としました。

今度は、定刻通り始められるぞ、と誰もが思いましたが、やはり定刻通り始めることは出来ないのです。

遅れてくる人を待つからです。

多くの人は、職員会議を定刻通り始められるように、それなりに考えて行動しています。

そして、定刻前には、職員室に集合し、自分の席についています。

それにも関わらず司会者が「定刻になりましたが、何人かみえられていませんので、今しばらく待ちます」

それを最初は、何とも思わず、それが当たり前のこととして聞いていました。

しかし、考えて見れば、約束通りきちんと行動している人たちが「損」をしています。

馬鹿を見ることになっています。

これはどう考えたって変です。

時間を守らない人のために、多くのきちんと行動している人たちが損をしているのです。

はっきり言って私は頭に来ました。

それも毎回毎回遅れる人は決まっているのです。

何回遅れないように、と言っても最初だけ守ってくれますが時がたてば元の木阿弥でした。

 

■そこで私は、自分が司会のとき(それは週打合せの司会がほとんどだったとき)1秒たりとも遅らせませんでした。

定刻になれば、職員室に先生方がいようがいまいが「これから、週打合せを始めます。いない人には隣近所の人たちが後で教えてあげてください」というようにしました。

最初先生方はびっくりしていました。

しかし、そのスタイルに全ての先生方が慣れていきました。

先生方が慣れると共に、定刻に遅れる人が極端に減っていきました。

何とも不思議な話です。

「待つことが良いこと」なのではなく、「待たないことのほうが良い」ことだったのです。

そして、定刻に始まれば定刻通り、大体会議も終了するのです。

 

■定刻通り会議が始まり、定刻通り会議が終了するというのは、精神上大変良好でした。

へんなイライラを感じなくて済むのです。

ところで、時間を守らない方に共通していることが多くあることに気がつきました。

その一つは、朝の打合せが終わっても、さっさと教室に向かわないということです。

教室では、朝の会が始まっているはずなのに、タバコを一服。

もしくは学年の何人かで打合せが始まったりするのです。

また、授業も時間通りに始まったり、時間通りに終了させようという考えもないのです。

そのくせ、子ども達が時間を守らないと説教です。子どもを怒ったりしているのです。

教師が模範を示して、時間通りに行動すれば子どもも時間を守っていくようになります。

時間が来れば、遅れてくる子がいても、授業を始めるのです。

遅れてくる子を待てば待つほども、他のきちんと行動している子どもたちには不満が溜まります。

また、遅れてくる子を待ち、その子達を叱ったり怒ったりしていると、学級の雰囲気は悪くなっていきます。

 

■多くの人たちで行う会議や作業は時間通りに始め、時間通りに終了させる。

それが仕事を進める上での原則です。

その意識が、仕事の質を高めていくのです。

時間が無制限にあると思っていては、いつまでたっても仕事は改善されていきません。

限定された、限られた時間の中で、どんなことができるのか。何を為し得るのか。

そこを突き詰めて考えていけば、何が重要なことで何が重要なことでないのかを考えることになり、仕事が効率化・合理化され、しいては時間が生み出されていきます。

時間が生み出されていくということは、自分の生活にゆとりを生み、もっと人生を豊かに送っていける可能性を作り出していくことにつながるはずです。

教師自身が人生を豊かに暮らしていれば、子どもへの教育のあり方にも変化が生じます。

その変化は、子どもをよりよく成長させることにつながるだろうと私は考えています。

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