【教頭通信】働き甲斐のある学校・その2
【解説】平成31年1月4日記
3回シリーズの2回目となります。今読んでみると昔も今も私の考え方や取り組み方というのはほとんど変わっていないことがわかります。良く言えばぶれてはいないのですが、悪く言えば成長がないとも言えます(笑)。働き甲斐のある学校とは、子どもの事実を産み出す学校であり、職員一人一人の努力が正当に評価される学校なのだと思います。当然その陰には、学校の努力を正当に評価する教育委員会がなければなりません。ところが・・・。
※初出 平成14年 教頭通信
■私にも教師人生を「スマートにカッコよく」なんて考えていた時代もありましたが、そんなのははっきり言って幻想です。どんな職業であれ、努力無しに一人立ちすることはあり得ないのです。教師の世界でも同じなのです。努力なしでやっていけるほど、お気楽な商売ではありません。
■若い頃は、教師の若さで子どもは付いて来ます。若さにはかけがえの無い魅力があるのです。子どもへの指導も熱血でなんとかなります。子どもが思った通りに動かなければ、怒鳴り散らせば何とかなるのです。ただし、そう教師が思いこんでいるだけの話です。親たちも子どもたちも、あきれ返っているというのが大方の反応です。親の方が利口ですから、教師には直接文句は言わないだけの話です。電話をかいして、教師の非難・批判は広がっていきます。ただし教師が若いから「まぁ、しょうがないわね」という反応で終わります。そのように理解していたほうが現実に近いのです。「知らぬは教師ばかりなり」ということです。
■若さはいつか無くなります。三十を過ぎると子どもたちにとって、その教師はただ単なる「中年のおじさんおばさん」として写ります。その時に教師としての力量が無ければ、それこそ悲惨なことになります。5年から7年目の教師はマンネリに陥り、子どもとのふれあいも少なくなるという調査結果があります。今ではあまり聞かれなくなりましたが、以前まで「学級崩壊」というのが話題になっていました。何故、あれほど騒がれたかというと、その理由の一つに「ベテラン教師の学級でも崩壊する」ということがあったのです。
■何故、ベテラン教師の学級でも崩壊したのか。その理由は簡単です。若さが無くなる。しかも若い頃に教師としての考え方も技術も身に付けず、子どもの姿に鈍感だからです。もちろん一方的にそのように断罪してしまうことはいけないことかもしれません。しかし、私の見聞きする範囲で、学級崩壊の担任教師が代われば、学級が落ち着いたという事実ばかりなのです。
■前号で紹介した「教師は汗をかき、恥をかき、血のにじむ葛藤と修羅場に身を置く必要がある」という言葉は、最近の私が気に入っている言葉です。努力の末に教師としての力量がアップすれば、働き甲斐が生じます。ただ逆のことも言えます。働き甲斐があれば努力できるということです。しかしながら、この働き甲斐があれば努力できる、というのはどこか消極的です。受身です。やはり、本人自身が努力した末に働き甲斐を得るということが本筋だろうと思います。
■働き甲斐のある学校にするためには、まず本人の努力、一人一人の職員の努力が必要だと私は考えます。しかし、私は管理職ですから、どのような仕組みを学校の中に作れば働き甲斐のある学校だと職員が感じてもらえるのかということを考えなければ、無責任だということになるでしょう。
■H先生が過去何年間かの飛仁帯の学力テストの成績表を調べてくれたものがあります。これをグラフに表してみました。(グラフ省略)
■過去8年間飛仁帯小学校の国語の成績は、ほぼ横ばい状態。算数は、6年度から11年度にかけて下降。12・13年度と上昇傾向に転じています。しかし、両教科とも全国平均である50を下回っています。
■このグラフを見て、皆さんならどのように感じるでしょうか。感じ方は、人それぞれかもしれません。「数値だけが教育じゃないよ」「50を下回っているのだから、残念な結果だ」「何故、算数が悪いのかな」等さまざまでしょう。
■私なら、去年の結果より少しでもよくするためにはどうしたらいいのだろうと考えます。学力テストのための特別な勉強をさせることでしょうか。もちろんそんなことではありません。指導法で改善すべきところがないかを今一度点検し、見直し、具体的な取り組みをするということです。その結果去年より数値が上回っていたら、それなりの満足感を得ることにつながるでしょう。働き甲斐が生じるということです。
■つまり具体的な目標を定め、勉強し(その中で同僚と切磋琢磨し)、子どもの事実を少しでも作り出したとき、教師としてのやりがい・生きがい・働き甲斐が生じることになるのでしょう。