【校長会誌】忍びざるの心
【解説】平成31年4月4日記
基礎学力はどうでもいい、なんていう方は今はいないだろう。しかし、10年ほど前は平気でそんなことを言う方もいた。生きる力、それは大切だ。しかし、基礎学力無くして、生きる力も何もあったものではない。教師としての目の前の子供。教師として何ができるのか常に考え続けることなくして理想とする教師に近づくことはできない。「あなたは、教師として何を、誰を見ているのか。」深く問い詰めよ。
※初出 平成22年 校長会誌
今まさに井戸に落ちようとしている子どもがいる。その光景を見たとき、私達は何も考えず助けに行く。このときの気持ちを「忍びざるの心」という。いてもたってもいられいという感情。惻隠の情ともいう。性善説を唱えた孟子の言った言葉である。
普通学級に8+7ができない中学生がいた。部活にも入り、友達とも交流できるいわゆる「普通の子」だ。その子が8+7という小学1年生レベルの計算問題ができないのだ。この事実に直面した時、私達教師はどのように感じるだろうか。それとも何も感じないだろうか。大方の教師は、いてもたってもいられない感じになるはずだ。「忍びざるの心」である。8+7ができない。その子が中学の授業を毎日、毎日うけている。中学は、算数より難しい数学だ。毎日、どんな思いで自分の席に座っているのだろうか。一番悲しい思い、辛い思いをしているのは、教師でも、親でもない。その子自身なのだ。そのことに思いを馳せると悲しい気持ちに襲われる。
その感情の上で、私達教師は、その子を何とかしようと考える。8+7という繰り上がりのある計算ができないのなら、何とかできるようにしてあげたいと考える。それが至極まっとうなことだ。できないことをできるようにさせるということ。それは教師としての良心であり、責務である。できないことがあっても構わないのだと放置することは教師としての敗北なのだ。
熊本県が生んだ偉大な教育者徳永康起は次のようにいう。
できない子の気持ちの洞察こそ、教職専門最大の具備すべき資質である。
白く乾いた土には、水を注いであげましょう。 日陰にある花は、そっと日向に出してあげましょう。 それが誇り高い教職のかがやきでありましょう。 |
すぐれた教育者は、すぐれた教育思想の持ち主だと言われている。子どもをいとおしむ心に裏打ちされているのである。
低学力の問題。子どもの低学力をそのまま放置していいはずがない。その解決のポイントは、教師の「忍びざるの心」である。今、私達の目の前にいるその「子」。教師として、その「子」の現実の姿をどうとらえ、何を感じ、どうするのか。そのことが問われているのである。