【下書き原稿】学級崩壊にどう立ち向かうか

【解説】令和2年7月1日記

今回紹介するのは、学級崩壊について書いた雑誌原稿の下書きである。

当時から、私たちが学んできたサークルでは、一つ一つの言説が本当に効果があるのかということを検証するようにしてきた。

当時、学級崩壊について、さまざまな考え方があった。

しかし、私たちサークルがたどり着いた結論は、教師や人格や家庭の教育力といったことに原因があるのではなく、教師の指導力にその原因の多くがあるのではないかということであった。

だから地味であっても、日々指導力の向上に努めることこそ学級崩壊を防ぐ道だと考えていたのである。

※2000年下書き執筆

二年前、サークルの仲間が東京の大手書店の教育書コーナーで「学級崩壊」に関する本を探したことがあった。一時間ほど探してみるが求める本はなかった。学校教育問題のコーナーも見たが「学級崩壊」に関する本は一冊もなかったという。

それがわずか二年前のことである。ところが現在では、知らない人がいないのではないかというくらい誰でもが知っている。

「学級崩壊」という言葉が一般的に知られていないその二年前、私たちのサークルでは「学級崩壊」の実例を集めていた。集めた実例は生々しかった。ショッキングであった。そして、それらの実例をサークルで分析した。

例えば、次のような出だしの実例を分析したことがある。同僚の教師が記録して送ってくれたものである。

  担任教師が朝の打合せが終わり、教室に行く。子供たちは、イスに座っている人、掃除用具の上に座っている人窓のところに座っている人、テレビのマンガを見ている人等がいる。担任教師は、特に注意することもなく、朝の会を始める。

この場面をサークルのメンバーで分析する。大方のメンバーは、何故担任教師は子供たちを注意しないのか、という教師の指導を問題にする。当然である。

このように一つ一つの場面を切り取り、分析し検討を加えていくと、私たちは教師の指導を問題にしないわけにはいかなかった。そして、「学級崩壊」した担任教師の指導を問題にしていくと、その担任教師の人格にまで踏み込まざるを得なかった。

「何故、毎回毎回同じようなことで失敗するのか」「他の教師たちからのアドバイスや親からのクレームについて、本当に真剣に考えているのか」など人格批判に陥ざるをえなかったのである。

これではいけないと私たちは思った。それは「学級崩壊」をその教師の人格に原因を求めると、単なる興味本意のものとなり、教育研究はそこでストップしてしまうと考えたのである。

そこで私たちサークルは「学級崩壊」の実例を分析するとき、「その教師の人格に原因を求めない」という方針を立てたのである。その方針のもとに私たちがしたこととは、次のようなことであった。

私たちは、実例をより正確に分析していくために、ある教師から見た記録という形ではなく、子供たちが荒れている教室の様子、特に授業の様子をテープにとってもらい、それをテープおこしし、分析することにした。主にそれは教師の発する言葉を分析することになった。そして私たちは、授業記録に書き表された無駄な言葉に赤線を引いていったのである。

授業記録は赤線で一杯になった。「言い直し」「言い訳」「意味不明」の言葉のオンパレード。無駄な言葉が多いのである。教師が何も話さない方が荒れないのではないか。さっさと授業の本題に入ればいいのではないか。これで子供が荒れないとしたら、その方が不思議なくらいであった。

 

私たちは、学級崩壊している教師の記録だけでなく、自分たちも授業記録をとり検討してみることにした。ただし、四五分間全部をテープおこしすることは、労力がかかる。向山洋一氏は、授業の冒頭三分間見ればその授業の善し悪しがわかるという。

それならば私たちも授業開始三分間だけに焦点を絞り、無駄な言葉に赤線を引き、分析してみようと考えた。

向山洋一氏はいう。

授業の最初の三分間を意識することは、多くのものを教師にもたらすだろう。                              ┃ 

なるほど授業を組み立てるというのはこういうことかという理解をもたらすだろう。                        ┃ 

  『教室ツーウェイ』九七年五月号 

 

この向山洋一氏の主張を学級崩壊に関係付けて、私たちのサークルで実践してみたのである。その結果はどうであったか。未熟な教師、勉強不足の教師ほど無駄な言葉を発しているということであった。当然学級崩壊している教師は授業開始三分間もひどいものであった。

例えば、その代表的なもの。授業開始の挨拶。向山洋一氏が何度も授業開始の挨拶はしないということを書いている。それにも関わらず未熟な教師にかぎって子供たちに授業の挨拶をさせることにこだわる。

聞いてみると、学校として授業開始の挨拶はきちんとさせよう。挨拶をきちんとさせることで子供たちにけじめが付くのだ。同僚からそのように言われるから、しているのだという。

その結果どうなっているか。挨拶するとき、みんながそろっていない。そこで全員がそろうまで待つ。全員がそろっても、きちんと姿勢を正していない子がいる。日直が注意する。注意された子はきちんとする。ところが今度は違う子が崩れる。注意する。そんなことの繰り返しが続く。モグラ叩きである。最後は教師がきつく叱ることになる。授業開始から二分も三分も挨拶をきちんとさせるという指導だけでつぶれる。この指導は無駄であり子供をどんどん悪くしているだけである。

授業開始三分間だけのことですら、教師の指導力が学級が荒れるか荒れないかを左右していることがわかるのである。

教師の人格が問題なのではなく、指導が問題なのである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です