【原稿】時間を守ることは他人の生き方を尊重することである
【解説】令和元年7月2日記
現在、教員の世界では働き方改革が叫ばれています。時間外勤務が長時間に及び、心身を壊したり、家庭生活をきちんと送ることができないような過酷な状況に置かれているということから、教員の環境をよりよくしようというわけです。このことは、今に始まったことではありません。昔から勤務時間は関係なく、それこそ夜遅くまで働くということはありました。今回紹介する文章は、私が若いときに書いたものです。この問題意識は今でも通じそうです。働き方改革を進めるためには、学校のシステムを変えること、教員自身の意識を変えていくことが必要です。そして、そのベースとなるのは、公務員なのですから当然法令なのです。※文章の中に法令が出てきますが、現在は変更になっている可能性があります。当時のままで出しています。
※初出 平成10年
1.勤務時間を意識することは職業人としての常識
運動会や学芸会シーズンになると、平気で勤務時間を無視する。管理職が無視するのであれば文句の一つでも言えるが、同じ同僚が言ったりすると文句も言えず従ったりすることがよくある。
「学芸会の作業を放課後やろう」と突然言い出す人がいたりすると、大抵は勤務時間をオーバーするものである。みんなが一生懸命頑張っているのに、自分一人帰宅するわけにもいかず、心の中では「仕事が遅いのは段取りが悪いからだ。無駄も多すぎる」と思いつつ、そんなことを面と向かって言おうものならみんなから嫌われるのは間違いないから笑顔で一緒に作業をするはめになる。「教育は愛だ」とか「子供こそ主人公なのだ」等と声高に叫ぶ人に限って、平気で勤務時間をオーバーすることを強制するから始末に悪い。自分一人で勝手に作業や仕事をしているのであれば、それはそれで勝手だが、組織として作業をするとなるとそれは大きな問題である。
例えば、私の学校の実質勤務時間は、午前8時15分から午後3時45分の7時間30分である。午後3時45分からは、本来的に休憩時間になる。
2.勤務時間に関する条文
『月刊知的学級集団づくり通信』に勤務時間について簡単に触れた。そのことについて以下で紹介しておく。労働基準法には次のようにある。
労働基準法 第34条
使用者は、労働時間が時間を超える場合においては少なくても45分8時間を超える場合においては少なくても1時間の休憩時間を労働時間の途中に与えなければならない。
2 前項の休憩時間は、一せいに与えなければならない。但し、行政官庁の許可を受けた場合においては、この限りではない。
3 使用者は、第一項の休憩時間を自由に利用させなければならない。
これが大切な条文ということになる。つまり私の学校では、3時45分以降は帰宅しようがお茶を飲んでいようが自分の仕事をしようが自由ということになる。しかしこれでは、北海道の勤務時間について説明ができない。昭和63年に次のことが出された。
北海道学校職員等の休息時間の取扱について
一 改正の内容
改正前の条例第六条第二項を削除したことにより、休息時間を勤務時間の始め及び終わりに置くことができることとされたこと。
(1)休息時間は、正規の勤務時間に含まれるものであり(改正後の条例第6条第2項)、本来、拘束時間であるが、休息時間を勤務時間の始めと終わりに置いた場合、運用として、校長が公務に支障をきたさないと認めた場合は、休息時間内に出退勤することも個々に認めて差し支えないものであること。
(2)休息時間を二回置く場合、連続したり、休憩時間をはさんで連続して置くことはできないものであること。
これによって北海道では、休息時間を出勤前、退勤後に置くことができるようになったのである。
3.「時間は命と引き換え」
付属小学校の公開研究会に参加して驚くことは、平気で授業時間をオーバーするということである。それも2分や3分というレベルではない。10分も15分も平気でオーバーすることがあるのである。
先日、小児ガンにかかった小学1年生の女の子のことがテレビ番組になっていた。余命3か月と宣告されても学校に通ってくるのである。
その女の子を見ながら、もし私が担任だったらどうするだろうかと考えた。その女の子にとって、そしてその家族にとって大事なこととは何だろう。少しの時間でも家族と共に過ごさせてあげること、そのことを学級経営の根本に置くことになるだろう。
とすれば、帰りの会を長引かせることや「思い出作り」と称して教師側の一方的な押し付けで放課後や休日を使っての行事等を行うことは、その子にとっても家族にとっても「犯罪的な行為」になるに違いない。
そのことを根本におきながら、その女の子と家族の願いである「他の子と同じように生活したい」ということをいかにかなえてあげるのか。
それは、楽しい授業・わかる授業・知的な授業をしてあげることであり、休み時間は大いに他の子と自由に交流させてあげることであろう。授業も休み時間も同じくらいに、その女の子にとって重さがあるということ、それを意識して学級づくりを行うことになるだろう。
授業時間を平気でオーバーするということは、子供を決して大切にしている行為ではないのである。
これと同じように勤務時間を守るということは、他の様々な事情がある職員の生活を守ろうとする最低限の義務なのである。こうしたこともできないで、一人ひとりの働きやすい職場を保証したり、プロ意識を醸成していくことはできないのである。
「時間は命と引き換え」なのである。