【教頭通信】子どものつまずきに応じた教育③
【解説】令和2年5月11日
学力保障の基盤となるのは、家庭教育である。
ここがしっかりしていれば、学校で教えていくにあたっても、そんなに困難ではなくなるだろう。
しかし、現実には様々な境遇にいて、様々な子供たちが存在する。
公教育は、すべての子を取り残すことなく学力保障していくことなのだから、基盤的な部分にも目を向け、指導していくことが必要となる。
※初出 平成13年 教頭通信
■最近は、学校から帰宅すると,玄関の靴をチェックする。
きちんと揃えられているか、見るのである。
そうすると毎日のように、娘に「ちょっとおいで」となる。
「なにさー」と言いながら、娘は毎日のように靴を揃えることとなる。
一向に改善される見込みがない。
それでも前は私が呼んでも出てこないこともあったから、多少進歩はしたのかなと思っている。
■昨日紹介した森信三氏の「靴を揃えられる」ということが、私の娘にはなかなかできない。
娘は,靴を揃えるという、そのわずかなことに苦痛を感じている。
靴を揃えるという行為には,大切な教育のポイントが存在している。
靴を脱ぐ。
そして、家の中に入る。
そのわずかな間に、靴を揃えるという行為が入ることで,子どもを育てる大切なポイントが入ってくるのである。
■靴を脱ぐ。
脱いだ靴を見て,かがみ、つま先を反対にし、右と左の靴を揃える。
そして、立ち上がって部屋の中に入ってくる。
そのわずかの間にいくつもの行為を日本人はしている。
この靴を揃えるという行為の中には,「ていねいにやる」ということが含まれている。
そして、毎日外から帰れば行わなければならない行為であるから,「続けてやる」ということが含まれる。
そしてまた、靴が揃ったことを自分なりに確認して部屋に入らなければならないのだから「終わりまでやる」ということが含まれてくる。
要するに「ていねいにやる」「続けてやる」「終わりまでやる」ということが、子どもを育てる大切な要素となる。
■その意味からすると,私の娘には「ていねいにやる」「続けてやる」「終わりまでやる」ということが不足しているから,いくつかの問題を抱えることとなる。
それも全て親の育て方が悪かったのだと反省することしきりである。
■担任をしていると,色々なところでつまずく子には共通していたことがあることに気が付く。
それは、つまずきやすい子は、何事もていねいにできない。
続けてやることができない。持続力が不足している。
そして、最後までやり通すことができない。あきっぽい。
等といったことである。
とすれば、つまずきにくく、子どもの可能性を引き出していく教育を学級の中で実現させるためには,前述の三つのことを克服していく具体的な教育活動を仕組めばいいことになる。
■あなたの学級では,ていねいにやるということが意識化され,具体的な行為・行動となって、表れているだろうか。
あなたの学級では,続けてやることが認められ,学級の教育活動に位置付けられているだろうか。
あなたの学級では,あきらめがちな子を励まし,最後までやり通すことが賞賛されているだろうか。
それらは、何も身構えるような大きなことでなくていいのである。
例えば,算数の時間、線を引くときにはミニ定規を使って書く。
教室の外に遊びに行くときには,椅子をきちんと入れていくなどごくごくささやかなことで良い。
教師が気が向いたときだけ,思いつきで、子どもに注意したり,怒ってみたりしたところで,子どもは伸びていかない。
■次のような言葉がある。
「不健康な日常生活を改善しないで,特効薬だけを求めても問題は解決しないのである」
私は,研修の時間,何度かノート指導の大切さについて主張してきた。
色々な研究会や研究授業を見てきて感じたことの一つに、子どものまともなノートに出会ったことが無いということがある。
ひどいのになると、プリントを用意し,それに書かせる。その教科のノートが無いわけでなく、きちんとノートを購入させている。それなのにノートに書かせるのではなく,研究授業のときだけプリントを用意し,それに書かせる。それならば、最初からノートを購入させなければいいのである。
また、子どものノートをこっそり見ると、まともな字ではなく,薄く小さく、粗雑で片隅に書いたようなノート。
これらは、全部子どもの責任ではない。教師の責任である。
ノート指導一つできないで,何が「子ども一人一人を大切にした教育」と言えるだろうか。
子どものていねいに書かれたノート。それを見るだけでその学級の教育活動の美しさを見る思いがする。