【雑感】私にとって「遊び」は大切だった
伊勢さんが、私のダイアリー等にコメントを下さっている。その書き込んでいただいているコメントを読んで、私はどのような体験が基になって、今の自分があるのだろうかと思った。
私は、小学校入学前、ひらがなを読めなかった。ましてや書くこともできなかった。「自分の名前ぐらい、読めた方がいいぞ」と祖父に言われたことを覚えている。計算もできなかった。難しい計算ではない。簡単なたし算もできなかったのである。勉強に関していえば、ほとんど白紙の状態である。
祖父に言われたので、自分の名前だけはひらがなで読めるようになって、小学校に入学した。( 昔は、それが大方の子供たちの実態だったのかもしれない)今では考えられないような状況だった。母親が、私に読み聞かせをするなんてこともなかった。読み聞かせができるほど、生活に余裕はなかったのだと思う。何しろ家に本があったという記憶がないのである。
小学校入学前、私が通ったのは幼稚園ではなく、保育所だった。そのせいか保育所で何事かを習ったという記憶はない。あるのは、女の子と保育所に通ったり、友達と積み木で遊んだり、みんなと昼寝をしていたということぐらいである。
ピアノやそろばんなどの習い事もしたことはない。学習塾に通ったこともない。それは小学校の時だけでなく、中学でも高校でも大学でもなかった。唯一あるのが大学に落ちて予備校に通った一年間だけである。あとあるとしたら、中学から始めたトレーニングペーパーと言う通称トレペと言われている通信教育をしたぐらいである。月に一度郵送されてくる教材を自分の力でやるだけで、赤ペンを期待して返信なんてこともなかった。そういうシステムではなかったのである。
小学校に入学して、先生の話はしっかり聞いた。母親から「先生の話をしっかり聞くんですよ」と言われたからである。素直に守った。母親からも父親からも「勉強しなさい」とは一言も言われたことがない。先生の話を聞いていると勉強の中身は分かった。先生の話はしっかり聞いて、言われたことは守った。それだけで、成績は伸びた。人並み以上に、字も書けるようになったし、計算もできるようになった。入学した一学期、通知表は五段階評定の「オール3」である。今でも覚えている。その後、学期ごとに2教科ずつ1ランクアップし続けた。5をとれないのは音楽だけとなっていた。クラスで2、3人しか「5」はとれなかった時代なので、学習面では「先生の話をしっかり聞く」という勉強スタイルで、それなりになったのだと思う。しかし、中学は通用しなかった。家で勉強する習慣もなかったし、努力するということも、勉強する方法もよくわからなかった。そのために特に毎日の努力を要する英語は急降下であった。
私は、私の小学校時代を振り返った時、担任は6名の先生方に受け持たれたが、学力的に問題はなかった(と思う)。しかし、間違いなく学力がついたのは、その先生方のおかげである。先生方との思い出も数えるほどしかない。先生方に対する思い入れというのは、それほどない。ちなみに中学・高校でも毎年担任は変わった。高校卒業まで12名の先生方に受け持たれたことになる。それがよかったのか、悪かったのか私にはわからない。
このような育ち方をした私にとって、一番重要だったことは、「遊び」だったのではないかと思う。兄弟で遊んだし、近所の子供たちとも時間が過ぎるのも忘れて、日が暮れるまで遊んだ。近所の友達は、年上もいたし年下もいた。いいやつもいれば、悪い奴もいた。それでもみんなといて遊ぶと楽しかった。いつも10名前後の集団で遊んでいた。野山や川の中で遊ぶので、いつも服は汚れた状態だった。お正月やお盆になるとたくさんのいとこ達とも遊んだ。勉強の記憶は少ないが、遊んだ記憶はけっこうある。
父親からも母親からも「勉強しなさい」と一度も言われたことはなかった。 しかし、本を読むことが好きになっていく。読書に目覚めていくのは、小学校高学年だった。学校の図書室の本を全部読みたいと思った。それはかなわない夢だったが、数多くの本を読んだ。中学の時、母親から「本を買っても、腹の足しにはならない」と言われたことがある。今では笑い話である。
ひらがなも読めず、ひらがなも書けないような私だったが、四年制大学に入り、教師になることができた。不思議なものである。