【雑感】自分は見えているのか

You Tubeで全国一を決める剣道の試合を見たことがある。赤と白に分かれて決勝戦。お互いなかなか技を出せない。にらみ合いが続いたその一瞬、赤が打ち込む。待っていたとばかりに白も打ち込む。その打ち合いの終わった瞬間、審判が旗を揚げる。どれも赤だ。剣道を全くやったことのない私にはまったくわからない。技が決まった瞬間が見えない。YouTubeなので、スローで流れる。超スローだ。超スローで見ると、ほんのわずかだが、赤が先に決まっている。審判の旗の通りなのだ。

空手の試合もYouTubeでよく見る。これもまたどちらが勝ったのかは、私にはわからない。しかし、審判には見えている。相撲の解説者が、試合を振り返って勝負どころを説明する。なるほどと思う。

他人は、自分と同じ見え方をしていると思い込んでいる。しかし、それは間違っている。見え方は人さまざまである。私には、見えていないことが見えている人も存在する。なぜ、私には見えていないことが見える人がいるのか。もともとそのような才能を持った人もいるのだろう。しかし、大方は素人か玄人の違い、つまり熟達の違いである。素人には見えないことが、玄人には見える。そういったことである。

剣道の試合、素人が何人集まっても、どちらが勝ったのかはわからない。玄人である審判だからわかる。見える。素人がたくさん集まって、話し合ったところで勝負を決することはできない。しかし、たった一人の上級者、高段者がいれば、勝ち負けがわかり、なおかつ適切な解説をしてくれる。

こうした世界は、スポーツの世界だけの話だろうか。そんなことはない。ありとあらゆることにおいて、修練を積んだ者には見えるが、何も努力してこなかった者には何も見えないということだ。これは教育の世界でも同じだ。授業の見える人と見えない人がいる。子どもの見える人と見えない人がいる。それは、教師の世界もまた初心者の教師と優れた教師がいるのだから、ごく当たり前のことである。それならば、自分には見えているのか。見えていると錯覚しているのではないか。そんなことを考えている。

【雑感】自分は見えているのか” に対して7件のコメントがあります。

  1. 伊勢敏信 より:

    何度かテレビで全国大会を見たことがありますが、わたしにも剣道の試合は速すぎて勝敗が見えません。(笑)

    「自分には見えているのか?」鋭い視点だと思います。
    授業スキルを達人の域まで極めるというのはなかなかできることではないでしょう。見極められるようになりたいというのが青坂先生の理想なのでしょう。一生修行ですね。

    熟達の腕をもつ審判の判定とは、つまるところ先生が先生の授業スキルを評価する視点と言ってよいのでしょう。

    では生徒の方から見たらどのように見えるでしょう。
    技が速くて生徒には見えない、そうでしょうね。でも、生徒の方はそうした授業の技にはあまり興味がないかもしれません。中高生を教えていてそう感じます。
    トップクラスの生徒たちは、先生の知識がどの程度か見極めて、授業への対応を決めています。教え方の巧拙も話題に上りますが、授業内容のレベルが低ければ、無視して授業中に別の勉強をします。大学受験があるので時間を無駄にしたくないのです。
    内容があるからこの先生の授業は一生懸命に聞こう、あの先生の授業は聞いても仕方がないからパスして授業中に難易度の高い問題集を解こう、四月はそういう話を生徒たちがしています。評価はシビアです。授業内容から先生の知識量や学力を推し量っています。

    数人の、日本でもその分野では指折りの先生の授業を受けたことがあります。哲学者の市倉宏祐先生、経済学史の内田義彦先生、西洋経済史の増田四郎先生の三人を俎上にあげます。
    これら三人の先生の教える技術がすばらしいかと問われると、答えに窮します。授業を受ける学生としてはそういう視点で見ていないからです。
    ゼミや特別講義ではテクストを通して議論をしますが、先生の発言から、知識の厚み、どれほど読み考え抜いたかが伝わってきます。内田義彦先生の著作を読むと、思索の深さと読んだ本の量に圧倒されます。そして書いてある文章は、当初の半分以下にそぎ落としたものになっているので論が鋭利です。他の経済学史の研究者とはあきらかにレベルが違っていました。
    一橋大学学長だった増田四郎先生の場合は人柄も学風にあらわれていました。実証研究の鬼です、過去の資料を読み解き、予断をもたずに実証研究を積み重ね、そこから結論を導く。そういう実証研究の積み重ねの上に、現代社会の問題を切り取る。実証研究をベースにした「地域主義」という言葉が1970年代に広がりました。増田先生は親分肌、なつく弟子も多いし、弟子が可愛い。一番弟子の阿部謹也先生が一橋大学長になっています。学風がそっくりです。増田先生は幼稚園の孫をときおり大学へ連れてきて、遊ばせて、ベンチに座って眺めてました。好々爺そのものでした。院生3人の特別講義だったので、授業の後に毎月国分寺駅前の喫茶店の最上階でビールをおごって、話をしてくれました。
    哲学者の市倉宏祐先生には3年間ゼミで指導を仰ぎました。ゼミでマルクス『経済学批判要綱』を読んでいるときに、先生はイポリットの『ヘーゲル精神現象学の生成と構造』という難解な著作の翻訳をしておられました。ときおり、翻訳技術上の話をされることがありました。こういう場合にはわたしはこういうふうに処理しているというようなお話でした。そういうことは本を読んだだけでは伝わりません、謦咳に接しないと学べません。特攻兵の生き残りで同期の戦友たちのほとんどが散華しています。海軍航空兵として特攻出撃待機中に終戦となってしまいました。それが、先生の戦後の思索と生き方の根幹を支えていたことはいまはよく理解できます。
    そういうもろもろのことに頭が下がります。半端ではない読書量と思索の積み重ねが、その言説からひしひしと伝わってくるからです。
    そういう三人の先生の謦咳に接したことで、わたしの教師の理想像の骨格ができあがりました。

    自分が中学生や高校生だったら、こういう授業を受けてみたいと心の底から思える授業をしてみたい。受験レベルの知識を超える学としての教科、それを数学と英語の個別指導という窓を通して見させたいのです。

    どういう教師になりたいのか、自分の理想とするところに向かって人は日々歩むのだと思います。人生は長くもあり短くもある、それぞれが己の理想と思うところに従って旅の終わりまで歩み続けられたら幸せでしょうね。(笑)

    さて、ここからが本題です。こういう議論を見て、うざったいと思う先生もいらっしゃる。青坂さんとわたしは少数派です。
    先生だってサラリーマンだから、時間から時間まで働き、時間に見合った報酬を手にできれば十分と考える方がずっと多い。
    それは学校に限らない、民間企業でも同じことです。8割の人間はぶら下がっていて何の支障もないのです。いろんな考え方の人がいていいし、いなくてはならない。
    自分の理想を追いかけ、修行僧タイプの先生ばかりがいる学校を想像したら、息が詰まりますよね。(笑)

    1. office-aosaka より:

      いろんな先生がいていい、いや、いろんな先生がいた方がいいと考えてきました。懐の深さこそ教育には必要です。その方が子供の成長につながる。

      私は長年小学校教師でしたので、私の理想とする教師像がありました。私たちは、ひらがなを書いたり読めたりします。なぜ、私たち日本人はひらがなを習得しているのか。日本人として生まれたからなのか。そんなことはありえません。ひらがなを誰かに教わったからです。きっかけは、身の回りにひらがながあったとか、そういうことはあるでしょう。しかし、教えられるという行為なしに身に付く類いのものではありません。ところが私たちの多くは、ひらがなを習得したのは誰から教わったのかを明確に意識している方はほとんどいないと思っています。

      大人たちの知を支えているのは、きっと小学校時代に記憶には残らないような日々の勉強で身に付けてきたものであると思っています。

      思い出にも残らない、忘れ去られてもよい。しかし、生きていく上で最低限必要となる力を確実に身に付けさせること。そのために、その方法、技術を身に付けること。

      そんなことを思いながら教師人生を送りました。

  2. 伊勢敏信 より:

    なるほど。小学校教師がベースでしたか、わたしが一番わからないのが小学校です。東京で市立中学受験の生徒を個別指導で数十人みただけですから。
    自分の場合はひらがなをいつ習得したのか、記憶を探ってみました。
    小学校へ入学する前から字は書いていました。母親が教えてくれたのか年子の姉の真似をしたのか、好奇心からだったのかさだかではありませんが、クレヨンで落書きをするとすぐばれます。ひらがなの一部が鏡に映したように逆になっているから。叱られましたがはじめのうちはどうしてばれるのかわかりませんでした。(笑)

    孫が5歳ですが、ひらがなやカタカナを書き殴っています。絵本は初見のものでもすらすら読みます。これは娘が本を読んでやったからでしょう。母親の役割が大きい。
    小学校へ入学してからは先生の指導で読み書き計算能力が飛躍的に伸びるのでしょう。
    孫を見ていると、といっても年に2週間東京へ行っている間だけですが、足し算の桁あがりの処理に苦労しているようです。
    「3+8はいくつ?」
    そう訊くと、指を見つめています。
    「こころのなかでかぞえているの」
    真剣なまなざしで指を見つめているので笑ってしまいました、頭の中で指をカウントしているのです。しばらくしてから答えがでます。足し算ができるようになったら、今度は引き算の番です。

    小学生低学年で桁あがりや桁下がりをともなう計算の苦手な子が結構な割合でいます。そろばんを習っていたら、10の補数が身についているので、桁上りも、桁下がりも問題を生じることはありません。算盤が小学校の授業からなくなったことと、珠算塾へ通わせるお母さんたちの減ったことが、子どもたちの計算能力低下に拍車をかけています。
    次のような桁下がりの引き算の苦手な小学2年生が散見されるのは青坂さんのほうがよくご存知です。
    12-5=
    102-5=
    1002-5=
    10002-5=

    3年前に小学2年生で算数が苦手なので、夏休み2週間だけ教えてもらいたいと頼まれたことがあります。どこでつかえているのかチェックすると、桁上がり、桁下がりの部分でしたので、手書きの問題を毎日作ってやらせてみました。最初は戸惑いますが、繰り返し同じ問題をやらせることですぐにできるようになります。中学生で割り算の遅い生徒に共通してみつかるのは、逆九九がスムーズに云えないということです。教えない先生が増えました。これは校長先生のマネジメント次第で改善できる課題です。

    一人一人、吸収する能力が違うので、小学校の先生はたいへんでしょうね。
    普通にやったら、4割くらいを落ちこぼしてしまいそうです。たぶん個別対応してらっしゃる。それでも平均して25%の中学生が四則演算が苦手です。

    こうしてみると、青坂さんがいうように、小学校時代の学びはとっても大切です。高校や大学とは違って指導する先生の指導技術も問われます。

    小学校の先生と中学校の先生とではすこし視点が異なるようです。「読み・書き・計算」の基礎能力をしっかり身につけさせるというのが小学校の先生の共通した目標といっていいのでしょう。

    小学校の先生の授業技倆はさまざまですから、「読み・書き・計算」が苦手のまま中学生となる生徒が25%以上出ます。それをどのようにフォローするのかというのは中学校の先生たちの課題です。
    高校はどうしているか。数学は低学力の生徒たちには学力別クラス編成で、基本問題しかやりません。高1の低学力の数学クラスでは中学校の学びなおしがほとんどで、高校の内容は基本問題だけ。
    大学もいまやそうなっています。理系の学部では夏ころまで数Ⅲの内容の学びなおしをしているところが多いようです。

    逆にたどっていくと、中学校の受け入れ態勢に不備がみつかります。25%の「読み・書き・計算」が苦手な生徒への初年度対応が組織的になされていません。校長のマネジメント次第ですが、青坂さんのようにマネジメントスキルの高い校長は稀です。これはふるさとに戻ってきて、地元の中学校3校を16年間観察した結果の結論です。ほとんどの校長先生が学力低下になすすべがない、適切に対応できたのは、根室市内の市街化地域の3校では16年間でお一人だけ、SY先生のみでした。

    そうしてみると青坂さんの次の言葉がとっても重要な意味をもってきます。

    「思い出にも残らない、忘れ去られてもよい。しかし、生きていく上で最低限必要となる力を確実に身に付けさせること。そのために、その方法、技術を身に付けること」

    もう一つ対話させてください。

  3. 伊勢敏信 より:

    気になっていることがあります。わたしはわたしの教師の理想像を追いかけているし、青坂さんもまた別の理想像を心に思い描いてそうしています。

    理想像は人によって違いますし、そもそも理想像というのは自我本能に根ざしているのではないかという疑問がわたしにはあります。理想を追いかけるのは自我本能の自己満足にすぎぬのではないかと疑っています。
    だから、理想を立てることも、理想を追いかけることもしない、あるがままで生徒と向き合うこと、そこに重心を移しつつあります。平等性智が働きだしたのかもしれません。

    何が生まれるのかいまは坦々とやってみなければわからないのです。慥かなことは、わたしのこころに変化が起き始めたということ、そしていくらかのタイムラグをおいてそれは外へ流れ出し何らかの作用を起こします。それを見てみたい。

    1. office-aosaka より:

      前回、私の理想像として書きましたが、もしかしたら私には教師の理想像がないのかもしれません。また、言語化できなのかもしれませんが。
      私は、小中高と12名の先生方に担任されました。ほぼ一年にお一人の方です。いろんな先生がいました。年齢も、性別も、性格も、得意としている教科も、それこそ様々でした。その様々な先生方に担任されたという体験は、私が教師を見る時、考えるときの根っこにあるような感じがしています。それは距離感というのか、教師とはというのか、うまく言えないのですが、教師が与える影響は少なくていい、教師は子供の心にズカズカ入らないで欲しい。そんなことを思ってきました。【続く】

  4. 伊勢敏信 より:

    これは根室の市街化地域の3校の先生たちに読んでもらいたいですね。

    http://office-aosaka.com/genkou/【教頭通信】学力向上のポイント/

    教育心理学的見地からは、青坂先生もわたしも「内罰主義」。外罰主義に対置してそういうのでしょうが、殺風景な用語です。教育に関するものですから、もっと温かみのある用語で置き換えたい。(笑)

  5. 伊勢敏信 より:

    自問自答でかってに書き込んですみませんが、また書かせてください。遊んでいるのかもしれませんね。

    内罰主義、外罰主義と書きましたが、青坂さんの「教頭通信」本文では「内罰傾向の強い人と外罰傾向の強い人」となっていました。引用ミスを訂正したいと思います。

    漢字指導についての青坂さんの実践例の解説が「教頭通信」にありました。
    指を使って読んでいるところを抑えさせる、全員が抑えていることを確認する、これも、なるほどとうなづきました。25人くらいのクラスまでなら可能な指導法ですね。
    そうしてみると青坂さんの実践的で具体的な指導例を網羅した「教頭通信」は新しく教員になる人たちにとっては宝の山。経験1年の教員が自分の指導法をチェックするときにも有用ですね。学ぶ心を失ったひねた教員なら机の上にあってもたぶん読まないでしょうから、無用の長物。
    このブログが根室管内のたくさんの先生たちに読まれることを祈ってます。

    こういう実践的な教育スキルが教育大や教育学部では教えられていない、いや教えられないというシステムに問題の根本がありそうです。

    ここで内罰傾向の強いわたしが、外罰傾向の発言に変わっていることに気がつきます。
    どうやら、一概には言えなさそうです。
    外罰傾向と内罰傾向という二者択一ではなくて、場面に応じて主張が変わる、そのほうが根っこに流れる主張を考慮したときに一貫しているのかもしれません。問題全体をとらえるときには両方の視点が不可欠なのでしょう。
    なによりわたし自身が、描いていることに矛盾を感じていません。自然な流れで書きました。

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