【集団思考論】第08回 子供の意見をまとめない
子供たちのいろいろな考え方をまとめて一つにしたりすることが、かえって子供たちを白けさせてしまうということに気が付いた出来事があった。
それは四月学級のめあてを子供たちに決めさせる場面であった。
ある子は「明るい学級」、ある子は「差別のない学級」、ある子は「きれいな学級」等と子供たちは簡単な理由を付けながら発表した。
それぞれの子供の新しい学年、学級にかける清々しい気持ちが伝わってきた。
いくつもの子供たちが考えためあてが黒板に書かれた。
それらを見て司会の子は、
「それじゃ一つにしましょう。どれとどれ をくっつけますか」
と言って、学級の子の意見を募った。
その時私は、「上手に司会するな」と思った。
似たものを付け、一つにまとめあげていくという手法。
これはきっと前の担任に指導されてきたものだろうな、と思った。
しかも、最後にはきちんと一つのめあてに仕上がった。
ところが、その話し合いが終わってある子がつぶやいた。
「私のめあて、他の子のと付けられたら、 ちょっと違うんだよね」
その言葉を聞いて、私が考え違いをしていたことに気がついた。
自分の意見を大事にして欲しい。
しかしそれは、絶対に取り上げて欲しいということではない。
取り上げてもらえなくても、みんなから検討され、良いところも悪いところも正当に評価されるということが大事なのではないか、と私は気が付いたのである。
例えば、他の子の意見と自分の意見が板書される。
その時点で子供は子供なりにわかる。
「自分の意見は他の子より劣るな」とか「勝るな」とか。
ところが、もし本人が他の子より劣るなと考えているにも関わらず、正当な理由も示されず自分の意見が採用されたとしたらどうだろうか。
また、一生懸命考えた案に他の子の意見を付けたしされたらどうだろうか。
子供からしたら、「やってられないな」とはならないだろうか。
子供の意見を大切にするということは、そのままの形で対応してあげるということでもある。
教師が、教師側の都合で子供の意見をまとめて復唱してみたり、板書してみたりすることは子供側からすると、「本当は違うんだよな」ということがけっこうあるのではないか。
大人からみたら微妙な違いかもしれない。
しかし、お互いの意見の微妙な違いこそ、子供にとっては大変重要なことであるのかもしれないのである。
「構造的な板書」というのがある。
たいていは、教師側のしっかりした教材研究に基づき、授業中の子供たちの意見もある程度取り上げられ、見た目でもすっきりと授業がまとめられ、板書されていくのである。
「素晴らしい板書ですね。後から見ても授業のねらいや一時間の内容がすっきりとわかります!」
そうした称賛は、あくまで教師側から発信されるものである。
授業は、子供側に立つことが必要である。
子供自身が一生懸命に黒板に書いた自分の意見。
それは子供にとって「かけがえのない」板書である。