【集団思考論】第14回 集団で遊ぶのが苦手な子
休み時間になっても一人でポツンとしている子がいる。
休み時間中、やることといえば、教室の中で本を読んだり、学校の中をブラブラと歩きまわっているだけである。
誰かにいじめられているのかといったら、そんなこともない。
また、遊びのルールを守れない子もいる。
ハンカチ落しをやる。
最初のうち、子どもたちは笑顔で遊びに興じる。
しかししばらくすると、自分にハンカチを落してくれないと言って、不平不満を言う子があらわれてくる。
ドッジボールをする。
特定の子だけが生き生きとしてボールを投げたり、受けたりする。
ところが、自分にボールがこないと言って座りこむ子。
ボールがぶつかって泣く子。
しかもいつまでたっても泣き止まない。
学級の中には、集団で遊ぶことが苦手な子が存在する。
これはなにも今に始まった話ではない。
一八年前、私は教師になった。
その時から集団遊びの苦手な子は存在していた。
勉強とともに友達と遊べるようになることも大切なことであると私は考えた。
休み時間になると私は子どもと遊んだ。
休み時間になると子どもが私を遊びに誘うのである。
手つなぎ鬼、野球、サッカー、だるまさんが転んだ、縄飛び等など、いろいろな遊びをした。
子どもと遊ぶことは楽しかった。
しかし、ある時から気になることが出てきた。
それは、いつも私を誘う子は決まっているということであった。
いつも同じような子ばかりと遊ぶ。
そのことが、私と遊べない子に寂しい思いをさせているのではないかと私は思った。
しかも、私が子供たちと遊べば遊ぶほど学級集団が分裂していくような感じがした。
私は、学級全体の担任として、どの子とも遊ばねばならないのではないか。教師として、休み時間といえども子どもを指導することがあるのではないか。
そんなことを思った。
遊びの輪の中に入れるようにいろいろな子に声を掛けた。
遊んでいる途中でも、ルールを守らない子がいたり、友達に意地悪をする子がいたりすると私が注意をした。
子どもと遊ぶということを通しながら、遊びの指導をしようとしたのである。
私の頭の中にあったのは、自分が子どもの頃遊んでいたやり方やルールであった。
ところがである。
私のやり方やルールを子どもたちに押しつけたりをすると、その場の雰囲気が白ける。
もちろん子どもたちを注意をすると最悪であった。
子どもたちも白けたが、私自身の気分も滅入った。
そんなことが続くと子どもたちと遊ぶこと自体が重荷になる。
子どももまた私を頻繁には誘わなくなっていった。
そこで私は、子どもたちから一歩退いてみることにした。
「子どもと遊びたくなったら遊ぼう。義務感で遊ぶことは止めよう。それより休み時間、子どもが誰とどんな遊びをしているのか把握することをしよう」
そんなことを考えた。
そして、子どもたちの様子を見ることをした。
子どもと遊ぶことで見えたことはたくさんある。
しかし、子どもの遊んでいる様子を見ているとまた違ったことも見えてきた。
友達関係、集団内における力関係、その時の子供たちの遊び方、そんなこともおぼろげながら見えてきた。
しかしやはりそれだけではダメであった。
子どもを放っておいても遊びはなかなか発展しなかったし、何より子どもの人間関係が良くなっていくということもあまりなかったのである。
毎時間毎時間、私の授業がすばらしいものであれば、休み時間子どもたちを放っておいてもよかったのかもしれない。
しかしそんなことは、教師として未熟な私にとって不可能に近いことであった。