【集団思考論】第03回 行動を前提にすると子供は本気になる
担任していた時、次のようなことがあった。
朝の会。日直二人の子が司会をする。輪番制である。
私の場合、ほとんどが隣あった席の男子と女子が日直になる。
私が朝の職員打合せでいなくても、子供たちは時間が来ると自主的に「朝の会」を始めている。
子供たちだけで出来るようになるために私は、朝の会のプログラムを固定し、司会の仕方を子供たちに指導しておく。
仕組みを作っておくのである。
そして、実際にやらせて子供だけで何とかやることができれば、うんとほめる。
「すばらしい。自分たちでできるのは立派!」
仕組みを整え、子供たちをほめることでまがりなりにも自分たちだけでも朝の会をスタートさせることが出来る。
朝の会のプログラムはほとんどができるようになる。
しかし、朝の会の話し合い活動は、教師がいなければ成立しにくい。
それは次のようなことである。
朝の会のプログラムの中に「みんなから」という時間があった。
この「みんなから」では、日直の司会のもとに誰もが、どんなことを発表してもいいようにしていた。
ある子が発表する。
それに対して他の子は質問する。
そんなやりとりを子供同士で何回か繰り返すのである。
例えば、ある子は「通学路にフキノトウが咲いていました」等の登校途中で発見したことを発表する。
他の子は、聞いていて「どこに咲いていましたか」「どんな大きさでしたか」等と質問するのである。
ところが話題によって、子供だけでは上手に話し合いができなかった。
発表する子は一生懸命だが、それ以外は無関心といった感じになるのである。
ある子はおしゃべり。ある子は手いたずら。
「通学路にフキノトウが咲いていました」等という話題は、教師からしたら何とも素敵な話題なのだが、子供からしたらどうも関心がない。
そこで教師として、私がやむなく話し合いに介入することになる。
ところが、自分と関わりのあることが話題になれば、一生懸命聞く。
しかも、「休み時間、学級のみんなで鬼ごっこをして遊ぶ」等ということが提案されると、それこそ一生懸命意見も出すし、人の意見も聞こうとするのである。
自分に影響を及ぼす、つまり自分の行動にかかわってくること、そうした話題は子供にとって切実なのである。
それ故に、あまりに話に熱を帯び、感情的になることも出てくるので、私が話し合いに介入し、子どもの意見を整理し方向付けることもあった。
これは子どもたちが、話し合いに一生懸命でなくて介入したのではない。
あまりにも本気になり過ぎて介入せざるを得なかった。
ある意味において「うれしい悲鳴」を上げざるを得なかったのである。