【雑感】子どもの体の中を駆け巡るエネルギーを否定しない。
ある物事に接した時、私たちの体の中を「あるもの」が駆け巡ります。
それを上手に言葉として表現できると駆け巡る「あるもの」は落ち着いてきます。
また、誰かが代弁してくれると「そう、そう、そうなんだよね」と納得したりします。
大人になってくると、その「あるもの」の表現が、語彙が豊かになってくるとともに上手になります。
体の中を駆け巡る「あるもの」を適切な言葉で表現します。
その「あるもの」の多くは感情に関することです。
怒りであったり、悲しみであったり、喜びであったり、不安であったり、恐怖であったりします。
子ども時代というのは、「感情」を上手に表現できないことが多いものです。
表情や声や体であらわしたりします。
それを周りの大人の側が汲み取って感情を推測します。
ところが、その感情を上手に表現できないばかりか、誤解されてしまうような表現方法をとってしまうということがあるものです。
祖母のお葬式の時、まだ小さかった私はお経を読んでいる僧侶の姿がおかしくて何故か従妹とともに笑ってしまったことがありました。
楽しかったわけではありません。
もちろん悲しかったです。
しかし、何故か笑ってしまった。
どう考えても不謹慎です。
子ども時代というのは、体の中を流れる「感情」という「あるもの」をうまく処理できないことがあるものです。
当然「感情」には責任はありません。
「感情」が沸き起こることは自然なことであり、当たり前のことです。
プラスの感情もマイナスの感情もです。
そうした感情を、まずはすべて認め、受け入れてあげること。
それが教育の出発点。
これが、昨日、第5回目のセミナーで話した私の問題意識でした。
コントロールの主体が『感情』なのだ・・・ということに大納得の2時間でした。ありがとうございました!
遠くからの参加、ありがとうございました!また的確な発言、私も参考になり今後の糧になりました。今後ともよろしくお願いします。